FXと投資信託金本位制(きんほんいせい)とは、一国の貨幣の価値を金に裏付けられた形で表すものであり、商品の価格も金の価値を標準として表示される。この場合、その国の通貨は一定量の金の量で表すことができ、これを法定金平価という[1] 。 概要 狭義では、その国の貨幣制度の根幹を成す基準を金と定め、その基礎となる貨幣、すなわち本位貨幣を金貨とし、これに自由鋳造、自由融解を認め、無制限通用力を与えた制度である。 これは特に金貨本位制という。つまり、金そのものを貨幣として実際に流通させる事である。実際には、流通に足りる金貨が常備できない、高額になりがちな金貨は持ち運びが不便などの理由により、金貨を流通させられない場合が多い。そこで、中央銀行が金地金との交換を保証された兌換紙幣(だかん-)とその補助貨幣を流通させる事により、貨幣価値を金に裏付けさせる事が行われた。これを金地金本位制(きんじがね-)という。 一般には、金貨本位制と金地金本位制を含めて金本位制という。さらに、自国で金本位制を実施出来ない場合でも、これを行っている他国の通貨と自国通貨との一定の交換性が保証されている場合には、為替を通じて間接的に金との兌換が行われていると考えて金為替本位制(きんかわせ-)と呼ぶ。広義では、この金為替本位制も金本位制に含める。 均衡のプロセス 金本位制には、国際収支を均衡させる効果があると考えられている。複数の国が存在していて、それらの国が金本位制を採用している場合、流通している通貨が異なっても事実上「金」が世界共通の通貨であることになる。 例えば、経常収支の均衡しているある国がある。 設備投資が活発になり好況になったとする。 国内の貯蓄がそれまでと変わらなかった場合、経常収支は赤字となる。 経常収支の赤字は輸入による自国通貨(金)の流出が、輸出による自国通貨(金)の流入を上回ることである。 このことは国内の通貨残高減少を意味する。 通貨減少により国内の金利は上昇し設備投資が減少する。 景気は経常収支が均衡するまで沈静化し、やがてバランスをとる。 このプロセスにおいて、金利上昇時にFX からの資本流入が起きると、設備投資は減少せず、経常収支も均衡しない。経常収支と資本収支の合算が均衡している限り国内の金は増減せず国際収支は均衡する。 逆のプロセスとして不景気に陥った際も金の流入がプラスになれば景気が回復する。 不況レジームとしての国際金本位制(金の足かせ) 金本位制というのは、固定相場制の一種としてとらえることができる。各国がいったん自国通貨と金との交換比率を決定すると金平価も自動的に決定され、各国通貨当局は金平価を維持させるために、国内の金融政策が追随する形をとる。 金本位制はほかのドルペッグ制などとは違った固定相場制としての特質を持っている。それは金流出国と金流入国との間の金融政策の非対称性である。例えば、自国において金流出が起こったとする、その国では民間の兌換請求によって金を買い戻していることになるから、必然的に自国通貨のマネーサプライの減少をもたらし、均衡に至る。しかし、金流入国においては金流入によって民間より金を買い入れて、マネーサプライの拡大をすることになるが、当該国がマネーサプライの拡大を嫌った場合、他の資産を民間に売却することによって自国通貨供給の拡大を阻止するという操作が可能であり、このような金不胎化政策はかならず他の国に金融引き締めを強いることになるため、金本位制というのは本質的に強い引き締め圧力を持ち、拘束性を持つ政策レジームである。 イギリスで金本位制を確立した、1817年銘 最初のソブリン金貨金本位制の理念は古くからあったと思われるが、金貨は貨幣として実際に流通させるには希少価値が高過ぎたため、蓄財用として退蔵されるか、せいぜい高額決済に用いられるかであった。FX が法的に初めて実施されたのは、1816年、イギリスの貨幣法(55 GeorgeIII.c.68)でソブリン金貨(発行は1817年)と呼ばれる金貨に自由鋳造、自由融解を認め、唯一の無制限法貨としてこれを1ポンドに流通させることになってからである。 その後、ヨーロッパ各国が次々と追随し、19世紀末には、金本位制は国際的に確立した。日本では1871年(明治4年)に「新貨条例」を定めて、新貨幣単位円とともに確立されたが、まだ経済基盤が弱かった日本からは正貨である金貨の流出が続き、金銀複本位制を経て暫時銀本位制に変更されて日清戦争後に金本位制に復帰した。 しかし、第一次世界大戦により各国政府とも金本位制を中断し、管理通貨制度に移行する。これは、戦争によって増大した対外支払のために金貨の政府への集中が必要となり、金の輸出を禁止、通貨の金兌換を停止せざるをえなくなったからである。また世界最大の為替決済市場であったロンドン(シティ)が戦局の進展により活動を停止したこと、各国間での為替手形の輸送が途絶したことなども影響した。例えば日本は1913年12月末の時点で日銀正貨準備は1億3千万円、在外正貨2億4,600万円であり、在外正貨はすべてロンドンにあった。また外貨決済の8〜9割をロンドンで行っていたが、1914年の8月に手形輸送が途絶した(当時はシベリア鉄道で輸送していた)。 その後1919年にFX が復帰したのを皮切りに、再び各国が金本位制に復帰したが、1929年の世界大恐慌により再び機能しなくなり、1937年6月のフランスを最後にすべての国が金本位制を離脱した。 日本では、関東大震災などの影響で金本位制復帰の時期を逸し、1930年(昭和5年)に濱口雄幸内閣が「金解禁(金輸出解禁)」を打ち出したが、翌年投資信託 が金輸出を再禁止した。 第二次世界大戦後、米ドル金為替本位制を中心としたIMF体制(いわゆるブレトン・ウッズ体制)が創設された。他国経済が疲弊する中、アメリカは世界一の金保有量を誇っていたので、各国はアメリカの通貨米ドルとの固定為替相場制を介し、間接的に金と結びつく形での金本位制となったのである。 しかし、1971年8月15日のいわゆるニクソン・ショック以降は金と米ドルの兌換が停止され、各国の通貨も1973年までに変動為替相場制に移行したため、金本位制は完全に終焉を迎えた。 日本の本位金貨(旧1,2,5,10,20円、新5,10,20円)も1987年(昭和62年)5月31日限りで流通停止になり、名実ともに管理通貨制度の世の中になった。 日本では1871年新貨条例が定められ、この時金平価は1円=純金1.5グラムとされたが、その後1897年の貨幣法施行で金平価は半減され、1円=純金750ミリグラムとなった。 世界恐慌(せかいきょうこう)とは1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことをきっかけに生じた金融恐慌に対する、金本位制であるがゆえのシステム的な不備と当時の各国当局の対応のまずさから生じた1930年代の世界規模の恐慌を指す。大恐慌、世界大恐慌ともいう。 第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展したFX の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。 1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。 また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず投機熱があおられ、適切な抑制措置をとらなかった。アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。株式で儲けを得た話を聞いて好景気によってだぶついた資金が市場に流入、さらに投機熱は高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、ジョセフ・P・ケネディはウォール街の有名な靴磨きの少年が投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測したという。 そのような状況の下1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出されてしまった。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。 シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺したものはこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれるようになった。翌25日金曜の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。 週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態にまでなってしまった。当日の出来高は1638万3700株に達し(これは5日前に続く記録更新であり、以後1969年まで破られなかった)、株価は平均43ポイント(ダウ平均で12%)下がり、9月の約半分ぐらいになってしまったのである。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になったが、これは当時の米国連邦年間予算の10倍に相当し、アメリカが第一次世界大戦に費やした総戦費をも遥かに上回った。 |